記念日
「この世界は、私が産まれた時に出来たのではないか」
と、ふと思うことがある。
私が産まれる前のニュースや、誰かの思い出話も、全部が作り物なんじゃないかって。
「幽霊は見た事がないから信じない」
と、同じです。
“過去は見た事がないから信じない”
過去が本当にあったという証明なんて出来ないのです。
もしかしたら、昨日すら無かったのかもしれません。
私も世界も、あたかも昨日までがあったかのように“思い出”というプログラムを脳みそにインプットされて、“今という場所”に投げたされた、という可能性だってある。
だって、そうじゃないって証拠は無い。
まあ、そうだって証拠も無いけど。
どちらにせよ、特に変わりは無いんだろうけど、それぐらい過去も未来もアバウトで、本当に重要で、大切で、かけがえのないものなんて、実はそんなに無いのだと思う。
だから今、膝の上に晩御飯となるはずだった一人前のカレーライスが丸々乗っかっているわけですが、これもそんなに大したことではないのかもしれない。
私は今この“瞬間”にこの世に投げ出され、そのスタートラインなるものがこのカレーライスだったのかもしれない。
つまり、私が悪いのではない。
たまたまこの瞬間に投げ出されたってだけなのだ。
自分でカレーライスをダイナミックにこぼしたという思い出をもインプットされて。
そう思うと、この瞬間も膝から立ち籠めるスパイシーなにおいも、全部が愛おしく、尊いものに感じる。
あー、私は産まれたのだ。
カレーライスをかぶりながら産まれたのだ。
熱いと感じた。
これが生きるということか。
そして、頭にインプットされていた知識を活かして、「そうじ」というものをしようと思う。
さよなら晩御飯
今日はカレー記念日